ホンモノのエンジニアになりたい

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【読書感想文】偏差値50の文章を目指し、日本語作文術の修行に励む


読書感想文です。

今回読んだ本はこちら。日本語作文術。新書で感想文を書くのは初めての試みです。新書だから何か違うことがあるわけじゃないですけど。

日本語作文術 (中公新書)

日本語作文術 (中公新書)

 

 

事前釈明

技術は知識として頭に入れているだけでは使い物になりません。私はエンジニアをやっていますが、ただの知識がそれ単体で役立つことはそう多くないんです。何かを学び、出来ることを増やそうと思ったら、手を動かして「あーでもない、こーでもない」と言いながら失敗を重ねていくことが重要です。そういう試行錯誤を続けていって、ある時ふいに振り向くと「経験」という名の果実がなっていることに気付くんです。ビジネスパーソンが好む言い方をすれば「実績」です。一冊本を読んだ、あのフレームワークのチュートリアルは全部読んだ、これじゃ誰も納得しません。「〇〇を作った/やった」これこそが世のビジネスパーソンを納得させる最強の殺し文句となるのです。

何が言いたいかわかるでしょうか。「日本語作文術」なる書籍を読んでも、それだけで文章うまくなる訳じゃねーんです。なので「ライティングの本を読んだ感想文のくせに文章下手杉わろす」と言わないでほしい。このエントリはある種の練習と捉えています。皆様方に至っては「日本語作文術」を読んだ人間がとりあえず書いてみた文章ってのがどのレベルなのかと観察する場とご理解いただきたい。

 

この本を読んだ理由

もうね、嫌気が差していたんですよ、自分の文章に。表現力が無いくせに考えていることはぜんぶ書きたくなってしまうでしょ。そうするとクドクドした文章になってしまって、自分で読んで鬱になるんです。

そしてそれを直す作業がまた辛い。こっちはこういう書き方の方がいいな、あっそうするとこっちとの繋がりが弱いな、この表現強すぎないかな、言い切るための根拠が弱い気がする、こんな感じの無限ループに入ってしまうんです。これはこのブログサイトの文章でもそうですし、メールを書くときもそう、何ならメッセンジャー系アプリで送るインスタントな文章でもそうなんです。

思い返してみるとSIerに勤めていたとき、文章を書く作業にもっとも多くの時間を使っていた気がします。SIer勤めの時はくどい表現になっても正確に表現する力はトータルでプラス側に働いていました。でも文章を正確に書こうとするのって精神をゴッソリと持ってかれるんですよ。だから私の中で「軽い文章を軽く書く」というスキルがずーっと課題だったんです。ただ立ち向かいたくない課題をほったらかしにしてしまうのは世の常人の常。どうしても技術課題の方が魅力的に見えて手を伸ばしてしまいます。今はちょうど仕事も辞めてブログをダラダラと続けている状況なので、この課題に取り組む最良のチャァンス(ネイティブ発音を意識)なのではと思いました。

さて、こんな理由で文章作成スキルの向上に取り組むことが決まったわけです。そこで最初に頭に浮かんだのは以前読んだことのある以下のエッセイ。

 

原文
Write Like You Talk (http://www.paulgraham.com/talk.html)

日本語訳
ポールグラハム氏が常に意識する"話すように書くということ" | hackletter

 

ポールグレアム氏のエッセイから「Write Like You Talk」です。直訳すれば「話すように書け」です。書評エントリでこの人が書いた「ハッカーと画家」、この人が立ち上げた投資ファンドのドキュメンタリー「Y Combinator」の感想文を書きました。まぁファンなんです。

氏はこのエッセイの中で、

  • 話し言葉と書き言葉は違うものだ
  • 人は文章を書くとき形式ばった固い表現を使ってしまう
  • 多くのライターは読者をひきつける文章を書きたいと思っている
  • そのためにはシンプルな表現を使う必要がある
  • だから普段会話で使っている表現を使って書け

と述べています。

なるほどなるほど確かにそうだ。文章ってそのままの形で残る性質があるから、形式ばったものになってしまうのは自然なことです。それが文章を読みにくくしてしまっている。だから氏は普段お喋りするように書けと言っているわけですね。

 

これでようやく前置きが終わり、この本を選んだ理由を説明できます。ライティング系の書物を探していたときに、本書を手に取り目次に目を通してみました。その中の一節にこういうお題目が入っていました。

「話すように書け」は真っ赤な嘘

HEY HEY,あんたポールグレアム馬鹿にしてんの?こりゃ読んでボッコボコの書評を書かんと収まらんぜ。

これがこの本を読もうと思った理由です。

 

全体の感想

とてもよかった。御目々からウロコの情報が多かったです。誰だよボッコボコの書評書くとか言ってたの!

さて、本書のゴールは「達意の文章」を書くことです。達意の文章とは「うまい」文章ではなく、「まっすぐに読み手に届く」文章のことだと冒頭で書かれています。基本的にはこのゴールに向かうためのテクニックを集めた本ですが、一般的なハウツー本のような薄っぺらい内容ではありませんでした。中公新書の他書と比べると若干柔らかい印象はありますが、ちゃんとした新書だったという感想です。

 

「話すように書け」問題についての考察

ここでは先に述べた「話すように書け」問題について私の解釈と考察を書いていきます。長いセクションになってしまったので、結論だけ先に書きます。

一文一文は友人に話すようにシンプルな文章表現にし、文章全体はスピーチ原稿のように誰かに語り書けるように書く。

これが最終的に私が到達した結論です。以下、だらだらと愚考を重ねてまいります。

 

本書は「話すように書け」は真っ赤な嘘 と主張しています。しかし上で紹介したポールグレアム氏は「話すように書け」と書いています。

筆者は日本語の特徴として発話環境依存性というものを挙げています。これは言葉が使われるときに周囲の情報に依存して言葉が成立する性質を指します。例えば、話の流れ、暗黙の前提、身振り、相手の応答などが周囲の情報とされます。そういったコミュニケーションにおける非言語の部分から、話し手は言葉を省略でき、聞き手は省略された言葉を脳内補完できる。筆者によれば日本語は述語が中心となる言語のため、それを補足するための主語(たとえば「私は」)は省略されることが多いとあります。たしかに普通の日本語会話において我々日本人は明示する必要がない限り主語を言いません。

このように日本語は発話環境に依存する性質を持つので、「話すように書くことはできない」と著者は主張しているわけであります。ちなみに、文章を書くときに感じるうっとうしさや気の重さは話言葉で言った/考えた内容を書き言葉に翻訳するときに発生します。書き言葉では非言語の部分に頼ることができず、すべてを言語化する必要があります。この言語化の作業がとても面倒くさいもので、気が重くなってしまうようです。

 

しかしどうも腑に落ちない。「話すように書け」と主張するポールグレアム氏の言葉は直感的に正しいように思えるんです。小説なんかを読んでいても情景描写よりもセリフの部分の方が頭に入ってきやすいです。ただ一方で本書の著者が主張する発話環境依存により「話すように書けは嘘」という言葉も間違っているようには思えません。

 

ここでポールグレアム氏のエッセイからの引用です。

Ok, so written and spoken laguage are different. Does that make written laguage worse?Written laguage is more complex, which makes it more work to read. (http://www.paulgraham.com/talk.html)

書き言葉と話し言葉は違うものなんだ。書き言葉は劣っているんだろうか?書き言葉は複雑で読みにくいんだよ。(私の和訳)

 

ここまで引っ張ってきましたが、英語で文章を書いているポールグレアム氏も「書き言葉と話し言葉は違う」と書いています。なので結局のところ、発話環境依存の強さに違いはあれど、日本語も英語も「書き言葉と話し言葉は違うもの」のようです。

 

うーん、そうなるとポールグレアム氏と著者の主張の違いは何によって発生しているのだろう。それぞれ反対の主張をしているけど、どっちも正しいことを言っているように感じられる。著者の言う発話環境への依存(度合い)も原因の一つである気がしますが、どうもそれが主因ではないように感じます。まだ何かがある気がする。

 

愚考を重ねた結果、どうやらこの感覚は「話すように書け」のうち ”話すように” の部分にあるような気がしてきました。”話すように”と一言でいっても、その表現幅は広いです。そもそも ”話す” がどういう状況での ”話す” なのか定義していません。日常会話なのかビジネス会話なのか、そもそも会話なのかスピーチ・プレゼンなのか、あらゆる "話す" シチュエーションが含まれていて人によって頭に思い浮かべるシーンが違います。

そしてその定義されていない "話す" を更にボカす ”ように” が付く。「話し言葉で書け」「話すように書け」この2つの文は後者の方が曖昧度が高いですね。未定義な ”話す” の意味に更に曖昧さを付け加える ”ように” が続く。エンジニアブログなのでITの世界に強引に例えると「AIのようなものを作れ」といった感じでしょうか。そもそも「AI」って定義ないし、それを更に曖昧にする「ようなもの」って何やねんという話になります。明らかな地雷プロジェクトです。

 

このようにまず想定されている ”話す” のシチュエーションが違うのだろうと思いました。そしてポールグレアム氏のエッセイをもう一度読んでいたところ、以下の一文を発見。

People often tell me how much my essays sound like me talking.

私の文章を読むと、まるで語りかけられているかのようだと、よく言われます。

 

意訳かもしれませんが「語りかけられているかのよう」がこの論争の根幹にある重要なキーワードになるのではないでしょうか。

 

「話す」と「語りかける」は意味が違います。前者は「行為」に重点をおいた言葉で相手の応答や特定の状況を描写する言葉ではありません。口に出して言う動作自体を表現する言葉です。後者は「内容」に重点があり、聞き手が存在し一方的に内容を伝える意味が含まれます。

著者のいう「話すように」は会話を想定した話し言葉を指しているのではないでしょうか。発話環境依存は、話の流れ、相手の応答といった情報によって省略される語があるという説明でした。これは「語りかける」というよりも会話における話し言葉を指しているように思えます。

一方でポールグレアム氏は読み手が「語りかけられているよう」に感じる文章を書いているので結果として「語りかける」文章を書いています。

つまり日本語の会話の一部を切り取って話し言葉をそのまま文字化しても書き言葉にはならない。語りかけるように話した一連の言葉を文字化することが「話すように書け」の真意なのではと考えました。

 

これらから私の至った結論は「読み手に語りかけるように書け」です。「話すように書け」のうち”話す”の部分をやり取りや背景に依存してしまう会話だと思ってしまうからおかしくなってしまう。友達や彼女に語りかけるようにでもいいし、ビジネスライクな文章ならスピーチやプレゼンの原稿を書くように文章を作るでもいいかもしれない。加えてポールグレアム氏が言う「話すように書け」は友人と会話する時のような誰でもわかるシンプルな表現を使えという教えでもあります。 

一文一文は友人に話すようにシンプルな文章表現にして、文章全体としてはスピーチ原稿のように誰かに語り書けるように書く。今回この本を読んで、そして氏のエッセイを読んで、私が考えアウトプットした結論がこれです。これだけ見ると非常にシンプルに見える。

 

ビビっときたところ

全体の感想ではなく本書内のビビっときたところをまとめておきます。文章をそのまま持ってきたところだけ引用形にしています。

 

文を借りる

「文を作る」と考えるから気が重くなるので、「文を借りる」と考えれば気が楽になる。

これは発想が面白いなと思ったので引用。必要になった時にいつでも借りれるかと言うと、それは無理。普段から借りてストックしておくことが重要なのではないかと思いました。

 

品位について

斎藤美奈子著「文章読本さん江」(ちくま文庫、2007年)にある文章を書くコツについて本書内で言及していました。

その1 分かりやすく書け
その2 短く書け
その3 書き出しに気を配れ
その4 起承転結にのっとって書け
その5 品位をもて

本書では1と2はそうだけど3~5は違うだろと主張しています。1~4はテクニックなので正しいかどうかトーシロの私にはわからないですが、5の品位をもては少しひっかかりました。文章を書くときは品位をもてと。なんか高級レストランのような話だなぁと感じました。畏まったレストランでの食事もいいけど、床が油でギットギトの中華料理屋も悪くない。文章ってそういうもんじゃないのか。お上品で着飾ったものも、下品で粗野なものも、両方ともが文章であるし両方とも良い所があると思います。「文章読本さん江」を読んでいないのに批判するのはフェアじゃないのでこれ以上は書きませんが、「文章=高級レストランの料理」ではなく、「文章=料理」のように考えるのが正しいと思います。

 

定型表現をあつめ使う

「力瘤を入れる」「敵の喉笛に飛びかかる」「四の五の言うな」

こういう定型表現をつかうことで文章が柔らかくなる効果があると筆者は書いています。確かに正確な描写のためにグダグダと書くよりも、抽象的な表現を使うことで文章が柔らかくなる効果があると思いました。これ似てるなと思ったのはビジネス界隈の横文字単語。

例えばIT業界ではソリューションという言葉が使われます。状況にもよりますが、このソリューションって致命的な問題の解決策というニュアンスはありません。どちらかと言うと、問題は問題だけど解決できたら効率的になってみんなハッピーになるよね、程度の問題の解決策というニュアンスがあります。横文字単語は揶揄されることが多いですが、日本語に無い曖昧さや抽象さを表現するのに使いやすい側面があり、定型表現と似たような効能があると思いました。

 

長文撃退法「一文一意」「短文=単文」

長文はだめだ短く書けとはよく言われますが、一文一意というのは発想にありませんでした。これはプレゼンの資料を作っているときの「伝えたいことは1スライドで1つ」の話と似ているなと思いました。プレゼンも文章も根幹は誰かに何かを伝えることですから同じ目的があると言えます。

といっても、切れるところでブツブツに切っていけばいいかというと、ことはそう単純でもない。長文を区切って短文にすると難しくなるのは、文の繋がりのロジックです。これを表現するための接続詞について筆者はこう書いています。

「日本的」名文派は接続語を極力使わないようにと助言する。正確な情報を旨とする実用文派はむしろ論理関係を明示するために使うことを促す。

大学受験のころだったか、「きちんと文章書けば接続詞は自然と不要になる」と教わった記憶があります。どうも腹落ちしなかったんですが、やっぱり明示するには使ったほうがよかったのね、と思いました。 

 

短文=単文で対応できないとき

[1] 予告する
[2] 箇条書きにする
[3] まとめる(要するに、つまり、大事な事は、など)

短文にすることで単純な構造の文章が連続するくらいなら、箇条書きにしてしまえとの教えです。不思議なもので、というより技量不足なのか、書き出すときに「この部分はくどくなるから箇条書きにしたほうがいいな」って気づけないんですよね。書いた後で文章をこねくり回してやっと「あぁここは箇条書きがいいな」と気づくんですが書く前に気づけない。みんなそうなのかしら?

 

日本語の語順についての規則

[1] 名詞、動詞、形容詞、形容動詞などの述語が文末に置かれる
[2] 修飾語が被修飾語の前に置かれる
[3] 文節(文の単位)は長い順に並べる

本書を読んでいて一番ためになったのはこの3つ目の「文節は長い順に並べる」ことでした。例文を引用します。

彼は友人たちと先週の日曜日に桜の名所として知られる吉野を訪れた。

桜の名所として知られる吉野を先週の日曜日に友人たちと(彼は)訪れた。

語順を変えただけなのに、2つ目の文の方が圧倒的に読みやすい。

 

曖昧な文への対応

文の曖昧さを処理するには読点と語順という二つの方法がある

これは何となく感覚的な理解をしていました。こういう原則を知れたのはとても有意義でした。

 

段落

「どんなに長くとも二百字以内に最低一つは段落を入れること」をおすすめする。

目安ということなんでしょうけど、具体的に一つの段落の文字数について言及している主張は初めてみました。作文用紙半分が最大文字数。(本書では200文字をゆうに超えている段落がけっこうある)

結論(中核文)を先に出す書き方は話をすっきりさせ、相手をいら立たせないだけではない。もう一つの思わぬオマケがつく。それは話(論)の展開が乱れない、横道に逸れないということだ。

これは知識として知っているけど出来ないやつです。不思議に思うことなんですが、ビジネス文書やプレゼンのスライドを作るときは、目次を作って骨子を固めてから中身を書いていきます。でも文章という単位にまで落ちるとなぜだが構成を考える前に手が動いてしまう。そして頭の中にある順番で文章らしきものを作っていくと結論が最後に出力される。文章を書くのに設計は必要なのか、それとも今風なFast Failの考えがいいのか、それなりの量のブログエントリを書いてきましたが答えはまだ見えません。

 

読みやすくするためのちょっとした気配り三箇条

[1] 文末に気をつける
[2] 平仮名を多くする
[3] 文体を統一する

 

まず文末について筆者はこう書いています。

書き慣れない人の文章でまず目につくのは、やたらに「と思う」、「と考える」が出てくることだ。重症な場合はすべての文がこの表現で終わる。(中略)断定できないときには「だろう」とか「にちがいない」、「かもしれない」、「ではないか」とか文末を言い換える工夫がほしい。

あぁ、はい・・・わたし重症患者です。

ただこれについては釈明させてほしいです。世の中に言い切れる物事がどれだけあるのかです。言い切れる物事の方が圧倒的に少ない(と思います)。となると何かの事象を正確に表現しようとすると、語尾に「と思う」「と考える」と付けてしまうのは自然なことです。これは文章として格好良くないですが、表現としては正しい。むしろ誠実さすら感じる表現です(と私は考える)。

IT関係の仕事をしていると、事実と推測をわけて表現することはとても重要なことです。表現として稚拙ですが、必ずしも「~と自分が思っているだけだから責任は取りません。」と言い訳したいわけではないんです。正しく表現しているだけなんです。が、理解を得られないことが非常に多くて困っています。

 

その他文末の単調さを避ける工夫が列挙されていました。これは有効活用していきたい。

(a) 疑問形にする
(b) 否定形にする
(c) 文をいったん終えてから、言い足す(もっとも~であるが、であるけれども)
(d) 倒置法を使う(~だけれど、~なのに、~ならば、を文末にもっていく)
(e) 体言止めにする

 

平仮名の使い方で紹介されていた手法が以下です。

  • 「時」、「事」、「物」が軽い意味のときは平仮名にする
  • 名詞・形容詞は原則として漢字とするが、和語系のものは場合によっては平仮名にする(うつくしい空、しずかな海)。基本的な動詞は平仮名にしてもよい(気持ちがゆれる、風がふく)。

 

これけっこう刺さりました。今まで何も考えずに漢字にできるものは漢字にしてましたけど、自分の文章が固い理由はここにあるのかもしれない。美しい空、うつくしい空。青い空、あおい空、蒼(略)。確かに印象が違います。

 

[3]の文体はいわゆる「で・ある調」「です・ます調」のことです。

文章は「だ・である体」で書くのが原則である。最近は「です・ます体」が多く見受けられるようになったが、あくまで例外と考えてよい。

んーこれはちょっとわからない。原則としてはそうなのかもしれないですが、文章を書くシチュエーションが増えた現代でどっちが原則でどっちが例外かを言い切る必要性が感じられません。本格的な執筆活動の中では「である調」が原則かもしれないですが、ブログ、メール、SNS、インスタントメッセージと多岐にわたる表現の場があるなかでは原則論を唱えても仕方がないと思いました。

 

終わりに

本書は達意の文に必要なテクニックを解説する本でした。知らなかったテクニックや原則が多くあり、読んでよかったと思える本でした。

前半部に「軽い文章を軽く書くスキル」が私の課題と書きましたが、このエントリをここまで書いて絶望しています。これライティングスキルの問題じゃない気がしてきました。たぶん考え方とかシンキングスキルの側に欠陥があるのだろうと思います。

ライティングスキルの向上にはつとめていきますが、どうもそれ以前の問題な気がしてなりません。

 

おわり